さよならの死

冷たく光る太陽のようだ

ツムツムする人の気持ち

 

なうぇすとの仙台公演にお邪魔した。

2/4、1日目。友達がとってくれチケット。座席はアリーナ花道横。ファンサを求めてるわけではないけど、こんな近い席を経験できることはそんなにあることじゃないので、たのしもー!という気持ちで挑んだ。

 

何の曲はすっかり忘れてしまったのだけど、とあるジュニアの子が目の前で止まった。アリーナ側を向いて、がむしゃらに踊っていた。

ジュニアの子はまだまだ体格的に未発達な子が多いし、そのせいでダンスもがむしゃらに踊る!でも下手!みたいな子も全然いる。

ただ、その子が圧倒的に違うのはとにかく音に合わせるのが得意みたいで、キレがあること。

盛り上がってないところがあれば自分ががむしゃらに踊ることで、お客さんの興味を引きつけて、どんどんお客さんのテンションを上げていくこと。

 

すごいなあ、と楽しくなってきて、楽しいよ!ありがとう!という気持ちでその子を見ながら踊ってきて、そんな楽しい!気持ちが最高潮に達したときに、その子に指をさされた。

 

びっくりして文字通り、腰が抜けた。友達に大丈夫?と声をかけられて、我に返った。トロッコに乗ってる近くを通ってるはまだくんにすら私は気付けなかった。

 

こんなことは今まで経験したことがなかった。

 

だけどその子になぜか気付いてもらえたことが嬉しくて、椅子の下に滑り落ちた「のん」と書いたうちわを少しの間拾えなかった。

 

2日目も両部入ったのだけど、結局小瀧くんも見ながらその子も見る、という何というか罪悪感にかられる行為に走った。

 

その子のことを考えながら、何となく積む人の気持ちがわかった。

 

私はファンサはおこぼれ的なものだと思ってたし、積む人はそんなファンサをおこぼれではなく確実なものにするために目につくところに入りたくて積んでると思っていた。

だけど今回わかったのは「○○して」うちわってそのファンサそのものを求めてるわけではなくて、あなたのことが好きですよ、というのが少しねじ曲がった一種のラブレターなんだなと。ラブレターなんだから返事が欲しいから、確実に目につくところに入りたいし、自分だって返事の中身がわかるところに入りたい。

 

だって現実で好きな人に好きって伝えるのも難しいから好きな人が優しかったら「あのね、わたし優しい人が好きなんだ」って言うじゃないですか。

でもその人が鈍いと「俺優しくないよ?笑」とか言ってきてやきもきするじゃないですか。

 

でも彼ら、特にジュニアはそのラブレターに対して返事を出すのがお仕事な部分もあるから、確実に返事をしてくれるわけで。

だから、目に入ってるのに返事を確実なものにしないから「干された」という概念が存在するし「いつも干してくるくせに今日に限ってちゃんと見つけてくれた(涙)」というわけのわかんないことをツイートしたりブログに書いたりする文化も存在するんだなと納得した。

 

そして、こんな違いがあるからこそ、「ステージ見れたらいい」と言い切る定価勢と「彼に見つからなくちゃ意味がない!」という積む勢で分かれるのだなあと納得もしました。

 

正直今わたしの手元に三百万ぐらいあったら春松竹積んでその子に「ラブレター」を書くと思います。

 

そのぐらいびっくりしました。

 

まあでもやっぱりそれが正しい行為だとは思えないのでせめて夏まではいてくれますように。間に合うようにジュニア情報局入ります笑